第4章 最初の魂の薬剤
魂薬の煎じは、アリシアの予想以上に神経を削った。
魂に触れる魔薬は総じて高級品だ。素材は高価、工程は複雑。火加減がほんのわずかでも狂えば、坩堝ひとつ丸ごと無駄になる。前世の彼女は薬で食べていたわけではないが、積み上げた基礎は身体に染みついている。――それでも油断はできず、半日ずっと坩堝の前を離れなかった。椅子に腰を落とす暇すら、ほとんどない。
若い肉体は土台が薄い。長時間、魔力の出力を維持すれば手首がじわじわと痺れてくる。だが止められない。薬液が沸き始めた後に火を落とせば、それだけで台無しだ。ぐらぐらと踊る薬面を睨みつけ、手順を胸の内で何度も唱える。どこか一つでも取り違えれば終わり――そう思うほど、集中は研ぎ澄まされていった。幸い、手は鈍っていない。傍から見ると難解な高級魔薬理論でも、彼女にとってはとうに暗誦できる常識だ。
やがて坩堝の中の色は濃から淡へ移り、幾層にも沈殿していく。最後に残ったのは、澄み切った淡金色の一汪。
――火候が来た。
その頃、当のアリシアが薬に没頭している一方で、ルナの胸の内はざわついていた。
ルナほど、お嬢様の変化を知る者はいない。派手な服と宝飾を好んだお嬢様が、いまは素朴な白いドレスばかりで、宝石もほとんど身につけない。魔法の授業を嫌っていたはずが、近頃は書庫と実験室に籠もりきり。ほかの侍女たちに「お嬢様、どうなさったの」と問われても、ルナは首を振るしかなかった。
不安がないわけではない。話し方も、歩き方も、どこか以前と違う。
とりわけ、あの日。着替えの最中に、お嬢様が自分の手を見下ろした目――言葉にできないほど遠い、古びた寂しさが宿っていて、ルナは背筋がひやりとした。問いかけたいのに、主人のことに口を挟むのは分を越える。結局、飲み込むしかない。ただ、理由は分からないまま、胸の奥に小さな棘として残り続けた。
その日の午後、アリシアが珍しく実験室から出て息をついたところで、執事と鉢合わせた。少し迷ってから、彼女は自分から口を開く。
「エレン。少し話があるの。最近、魔薬の研究をしていて……実験室と材料をいくらか使うことになるかもしれませんわ。お父様には、心配いらないと伝えておいてもらえるかしら?」
執事エレンは一瞬きょとんとし、すぐ眉を寄せた。以前のお嬢様なら、こんな報告はしない。まして、こんな丁寧な言い方など。
「承知いたしました。お嬢様が励まれるのは良いことでございます。公爵様には私からお伝えいたします」
口ではそう答えつつ、内心では別の帳簿に書き込む。――これは異常だ。公爵に知らせねばならない。
彼は長年この家を預かる執事だ。隠すべきことと、上へ上げるべきことを取り違えない。その夜、彼は親しい者を使い、軍団駐屯地へ急使を走らせた。いつもより重い口調の伝言を添えて。
夕刻。薬液はさらに澄み、暴れる魔力も落ち着いていく。成功まであとわずか――そう思った瞬間、実験室の扉がコンコンと叩かれた。ルナの声が、恐る恐る届く。
「お嬢様……公爵様がお戻りです。お嬢様にお会いしたいと」
その夜、執事の伝言は公爵の手に渡った。ロゲスト公爵は常に外にいるが、子どもへの関心は深い。魔法嫌いだった娘が突然、魔薬研究に没頭している。胸騒ぎがして、夜のうちに駐屯地から戻ってきた。
屋敷に着くなり、まずルナを呼び出して話を聞く。
ルナは規則どおりに答えた。だが理由は分からない。お嬢様は確かにお嬢様だ。身体も顔も一致する。ただ――性格が変わった。それだけ。刺激を受けたのかもしれない、と口にしてみたが、本人ですら信じきれない。
報告を受けたアリシアは、坩堝から目を離さずに言った。
「いま忙しいの。少し待ってもらって」
扉の外で、ルナが息を呑む気配がした。公爵様を待たせる?あのお嬢様が?
だがアリシアは長く待たせなかった。最後の薬力を収束させ、火を落とす。とろりとした薬液を丁寧に薬瓶へ注ぐ。瓶はまだ温かく、灯りの下で淡金に光った。鍋いっぱいの材料から、得られたのは100mlにも満たない。
彼女は熱気をふっと吹き、冷め切るのも待たず、喉へ流し込んだ。前世、時間に追われた日々のように。
温かな薬液が喉を滑り、四肢へ広がる。傷ついた魂が見えない手にそっと支えられ、潤されるようだった。裂かれて貼り直された鈍痛が、わずかに和らぐ。
だが薬力の衝撃で、顔色はむしろ白くなる。机に手をついて眩暈が引くのを待ち、彼女は理解した。正常な反応だ。魂と肉体の馴染みは一朝一夕では進まない。あと何本も飲む必要がある。
扉を開けると、ルナが彼女の顔色に青ざめた。
「お嬢様、お顔が……! お医者様をお呼びしましょうか」
「いらない」
薬後の掠れ声でアリシアは言う。
「お父様が会いたいのでしょう。案内して」
逃げるより、堂々と会うほうがいい。余計な憶測をさせないためにも。
襟を整え、乱れた髪を指で直し、食堂へ向かう。薬力が体内を巡り、足取りは遅いが揺れない。食堂の扉の前で一度息を整え、押し開けた。
ロゲスト公爵は威厳ある壮年の男で、軍を率いる者特有の圧がある。主席に座る彼は、娘の蒼白さを見るなり眉を寄せた。
「顔色が悪いな。具合でも悪いのか?」
執事へ向けて不満を滲ませる。
「娘が病んでいるのに、なぜ診せない」
執事が慌ててデルマン司祭を呼びに行こうとするのを、アリシアが止めた。
「デルマンさんは後日に。大事ではありません」
だが公爵は譲らない。
「呼んだなら診せろ」
アリシアはそれ以上は言わず、淡く頷いた。デルマンが来るなら来るでいい。前の薬は味が最悪だった。家庭司祭の腕前も見ておきたい。
彼女はいつものように父を避けず、席に着いて落ち着いて言った。
「大したことはありません。ただ昼食を抜いてしまって、お腹が空いただけです」
嘘ではない。研究に没頭すれば食事を忘れる。それが真因の一部であることも確かだ。真実の核だけを、言葉の外へ隠した。
公爵はしばらく娘を見つめた。目の前の娘が、どこか別人のように感じる。以前のアリシアは、彼の目をまともに見て話すことすらできなかったのに。
やがて食事が運ばれ、食卓が始まる。公爵は黙って娘を観察する。食べ方はゆっくりだが、所作が意外なほど上品で、眉間にあった甘えた幼さが薄れている。
沈黙ののち、公爵は尋ねた。
「最近、急に魔法に興味を持ったそうだな?」
アリシアはスプーンを置き、父の視線をまっすぐ受け止めた。
